愛二郎は、明治45年7月25日 京都府綴喜郡宇治田原町立川小導寺に、茶業と材木商を営む、父 中谷傳之助と、母 ゆく の4人兄弟の三男として生を受けました。
少年時代は、農業の傍ら、茶の製造や家業の手伝いをして生計を助け、尋常小学校を卒業後、高等科に進学、成績は良く級長を歴任し、学校からも進級を勧めらましたが、時を同じくして父親が出征したため家計が大変苦しく、1年で退学を余儀なくされ、15歳にして、田辺町(現在の京田辺市)の茶問屋に丁稚奉公に出たのでした。
学業が大変好きでしたので、問屋の親方の好意で夜間学校に就業することが出来ました。
愛二郎は、根っから事業意欲が盛んで、彼が25歳になった頃、必死で貯めた給金の500園を元手にして、京都市醒ヶ井の出張所を借り受け、独立を果たすことになりました。
もともと、お茶の製造加工には、技術的に非常に優れた才能があり、その彼の焙煎したお茶は、大変な好評を得ました。
しかし、利益を上げる間もなく、運悪く水害に見舞われ、原料茶葉が水没してしまい、営業継続が不能となってしまいました。
当時は保険も無く、逆に借財を背負い、その返済のため、やむなくもとの勤務先に戻って作業員として働くことになったのです。
その後、29歳の時に、城陽市長池に住む、現在の妻である永田ハルエと結婚し、永田家の婿養子として入籍、近隣の茶問屋に勤務することになりました。
子供も4人授かり、苦しい中にも何とか生計を維持しておりましたが、茶業独立に対する意欲は捨てきれず、近所の不動産屋の仲立ちで、何とか頭金を作り、一軒の借家を手に入れ、希望一杯で、念願の番茶の製造業を始めました。
しかし、運の悪さは重なります。なんと、その不動産屋の紹介した借家は、茶製造の工場スペースがすでに他人の所有物であることを隠して斡旋されていた事実が発覚、不動産屋の詐欺に会い、改めて、その部分を借金をして買い戻さなくてはならなくなってしまいます。
さらに、追い討ちをかけるように、実印を預けて委任状を作成されていたため、思ったより早く返済期限が到達することとなったため、どうしても返済が出来ず、商売は廃業に追いやられ、その借家を追い出されることになります。